今日のふとす

モットーは「毎日開店」。

言葉はじぶんに届けるものでもある

昨夜、宮崎で行われた坂爪さんの会でも話しましたが、

この連休で起きた一つの出来事について考えることが多々ありました。

 

この前の土曜日、大阪から東京行きの新幹線に乗るべく、

きっぷを入れて改札を通ろうとすると、

「てぃんとぅーん」という電子音と共にふさがれて通れませんでした。

そのきっぷは、何週間も前に予約して家に届いていた

ぷらっとこだま」のきっぷでした。

ぼくは「もう一度」と思って通ろうとしたのですが、

やっぱり「てぃんとぅーん」とふさがれて通れない。

すると、近くにいた駅員さんが近づいてきて、

「きっぷ入れれば通れますよ」とやってみるものの、

「てぃんとぅーん」と通れない。

 

「あれ?」と駅員さんがきっぷをよく見ると、

11月30日なのに、29日のきっぷだったんですね。

「お客さんこれ日にち違いますよ。もったいな~い」

とその駅員さんはぼくに言いました。

ぼくは駅員さんの顔を見て、きっぷを見て、

とっさに思いました。

「これには何か意味がある」

そして、

「なんて俺はおちゃめなんだろう」と思ったんですね。

29歳にもなってきっぷひとつまともに買えないじぶんを、

たまらなく愛おしく感じたんです。

たしかに、余分にまるまるお金をだして改めてきっぷを買い、

東京にいくことにはなったのですが、

計画とは違って早く友達に会うこともできたし、

なによりたのしかった。

 

そこで、

もったいないかどうかは他人が決めることじゃなくて、

ぼくが決めることなんじゃないのかと思ったんですね。

別に駅員さんを否定するわけじゃないんですけれど、

もったいないかどうかはぼくの話であって、

だれにも意味や価値を決めることはできないと思ったんです。

 

価値の付加や意味づけの権利はすべてぼくにある。

だとすると、「言葉はじぶんに届けるもの」でもあるのだと思いました。

すべての言葉はふだん誰かに伝えるために使われているけれど、

実はその対象が自分であることの自覚が無きに等しい気がするのです。

あとから「あれってじぶんに言ってたんだな」みたく

わかることはよくあるけれど、

伝えている最中に感じていることは極めて少ない気がします。

だからこそ、希望ある言葉を使う人は言葉を届ける誰かにだけでなく、

自らにも希望を付加していることになると思うのです。

そんなわけで、だれかに、そしてじぶん自身に希望を届けられる人として、

今日を生きたいなと思ったのでした。

 

今日もお越しいただいてありがとうございます。

ぼくに決められること、そこにこそ「自由」がある気がする。