今日のふとす

モットーは「毎日開店」。

何かがある

ぼくの頭の中というのは基本的にごちゃごちゃしています。

そんなぼくが話すこと、書くことは、

そのまま取り出すとなるとごちゃごちゃしちゃいます。

なので、

ある程度、順序立てて、整理して、

わかりやすいように出していきます。

なぜかというと、

表現の一つの役割として「伝わる」ことを目的にしているからです。

一方的に伝えるだけで終わっちまうのでなく、

ちゃんと相手に伝わることはうれしいんですよね。

そこから広がるものがあるし、変化が生まれます。

 

仮に表現というものが自己満足を始まりとしていて、

その先にある誰かの喜びや共感を目的にしているとします。

いざじぶんが表現したことに対して、

受け手が何かしらの感動を覚えてくれたり、

共感してくれたりすることが起きたとします。

でも、その感動がじぶんの意図してないところでの感動だったり、

じぶんの感覚とずれているところでの

共感だったりすることもあるかもしれない。

いや、ありますよね。

 

そんなことを考えていくと、

じぶんが目的にしている「伝わる」ということも、

結局受け手に左右される不確かなものだということになるんですよね。

受け手の千差万別の解釈がそこにあって、

たとえそれがじぶんの伝えたいこととは違っていたとしても、

じぶんの表現の一つの側面として受け手に伝わっている。

いい、悪いでなく、

そういう部分がぼくら人間の表現にはあるのだということは、

理解しておいたほうがいいなぁと思うのです。

 

先日、美術館で絵画を見てきたのですが、

たくさんの画家の表現を見て何を感じるかってのは、

完全にぼくの自由なんですよね。

作者の想いをつかみたい、感じたいという気持ちがある一方で、

じぶんだけが感じることを感じたいというじぶんもいる。

それは、作者の意図しないところでの

まったくの見当はずれの発見かもしれないけれど、

そういうものを、つまりはじぶんだけに聴こえる声や、音や、

じぶんだけに見えるものを見つめる姿勢、感じようとする心も

ぼくは大事な気がするのです。

 

それをどう受け取るかはじぶん次第ということを

ホントに強く感じます。

そして、感じないことを素直に認めることも

じぶんを大事にすることに繋がると思うんですよね。

今見えているものをちゃんと見ることと、

今は見えないけれど何かがあると思って見ようとする心意気を

両方持ち続けたいと思いやす。

 

今日もお越しいただいてありがとうございます。

8月が終わったと思ったら、9月がやってきた。